福井の歴史に触れる旅

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日本最古の城、「丸岡城」跡地が渋い!

「丸岡城(まるおかじょう)」は現存する天守閣の中で最も古い建築様式を持つと言われる平山城(ひらやまじろ)です。平山城とは城郭の形式の名称で、平野の中にある比較的小規模な丘陵などに建築された城のことを指します。お城は有事の際の防衛有利の観点からある程度高い山の上に築かれることが多いため、比較的珍しい立地といえます。「丸岡城」は戦国時代、西暦にして1576年に、一向一揆に対抗するために織田信長の命により建造されました。二重三階望楼型独立式という建築方式で、一回から最上階まで貫く柱がなく、一階部分が二階と三階を支えるようになっているため、一階が広々としています。現在丸岡城は天守閣を残すのみとなっており、ほかの城跡観光と比べる宇とやや物足りなさを感じる人もいるかもしれません。しかし天守閣の歴史を感じさせる壁の風合いなどは極力当時のまま保持されており、見ごたえを天守閣に凝縮した城跡といえます。丸岡城は霞ヶ城公園の中にあり、公園散策とセットにしてしまえば十分なボリュームを感じられるでしょう。近くには歴史資料館もあり、丸岡城の辿ってきた壮絶かつ遠大な歴史の一端に触れることができます。

「霞ヶ城公園」の名に見られるこの「霞ヶ城」とは、もちろん「丸岡城」のことを指します。これは丸岡城の別名――通称で、由来には諸説あります。一説としては、春、桜が満開になる季節に見上げる丸岡城はひときわ美しく幻想的で、その様子を表したというものです。もう一説は空想伝承からくるもので、合戦の際、大蛇が現れて霞を吹きかけ、城を隠してしまったという逸話に基づくというものです。

いずれにしてましても、丸岡城天守は古く威厳に満ちた天守閣のスタンダードを貫く見事な佇まいで、城めぐりの趣味に入って日が浅い人々をさらなる深みへといざなうにはこれ以上ない名城です。

沿革を知って、丸岡城観光に備える!

今でこそ国の重要文化財として大切に保存されている丸岡城ですが、その歴史をたどれば様々な人々がかかわり、ときに不運な経験を経ています。丸岡城の天守閣以外の構造物はいったいどこに行ってしまったのでしょう。失われたそれらかけがえのない建築群に思いを馳せながら、過去を振り返ってみましょう。

丸岡城はかつて織田信長の指示により、「柴田勝豊(しばた かつとよ)」という武将によって築かれ、彼が城主に就いた城です。この城主柴田勝豊ゆかりの品々は霞ヶ城公園内の歴史民俗資料館に多く展示されていますので、彼について学びたいという方は楽しめるでしょう。城主についてのお話は歴史民俗資料館訪問の楽しみとして取っておくことにして、かつて戦国の世にあった丸岡城とその周辺の状況はどのようなものだったのかを簡単に見ていきたいと思います。

1576年に築城され、1583年に敗戦によって城主が交代した丸岡城は、1600年の関ヶ原の戦いにより徳川家康の世が訪れると、またも城主が交代し、徳川家に属すようになります。以降丸岡藩の居城として君臨しますが、1871年の廃藩置県により天守閣以外の建造物がすべて取り壊されました。本丸を囲んでいた堀も徐々に埋め立てられて、今はありません。やがて町に買い戻されて保護され、城跡は公園となっていきます。以上がその沿革の概要となっています。

1990年には霞ヶ城公園が「日本さくら名所100選」に選ばれ、2006年には日本100名城に選定されました。

歴史雑学を知って、丸岡城観光に備える!

1576年の築城以来、1871年の「廃藩置県」まで長く「越前国(えちぜんのくに)」丸岡藩の居城としてそびえてきた丸岡城ですが、日本最古の天守と呼ばれるその城の築城には不思議な物語が付随しています。「人柱お静」というその伝承は、以下のようなものです。

丸岡城を築城する際に、天守閣の土台となる石垣が何度組み立てても崩れ落ち、工事が一向に進みませんでした。それゆえやむなく人柱を立てることになると、城下町に住む貧しい家の片目の未亡人「お静」がその人柱に名乗り出ました。息子の出世を条件に、自ら志願したのです。その要求は聞き入れられ、お静は人柱として土の中に埋められました。彼女の犠牲によってかどうか天守はその後無事に完成したのですが、なんと息子の出世という約束はついに果たされなかったのです。お静の犠牲はまったくの無駄でした。そして、とうとうそのことを恨んだお静の亡霊が大蛇となって現れ、城下で暴れまわったといいます。今でも毎年4月に3日かけて開催される「丸岡まつり」のいずれかの日は必ず雨に見舞われますが、それはお静の涙が生んだ雨だといいます。現在、城内にはお静の慰霊碑が残されています。

ちなみにこの丸岡城、天守の階段の上りにくさが日本一だそうです。傾斜が65度、一段あたりの段差が30センチ近くもあるらしく、また幅が非常に狭いのだとか。物珍しさに訪れる価値はあるでしょうが、お年寄りがこの天守をのぼるのは難しいでしょう。

丸岡城には「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」という文言が刻まれた石碑が残されています。これは徳川家康の家臣であった本多重次(ほんだ しげつぐ)により陣中から妻にあててしたためられた手紙の内容で、日本一短い手紙として知られています。意味は、「火事に気をつけ、息子のお仙を泣かさぬよう、そして馬は大切に扱うように」です。端的で要点を押さえた名文として有名です。

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